有珠山2000年噴火の推移

北海道大学大学院理学研究科教授  宇井忠英


3.噴火の前兆を捕らえる

 有珠山の過去の噴火記録では前兆として地震が群発し,断層が出来はじめていた.今回は3月27日から地震が増加し始め,翌日から有感地震が増加し,増大し始めた.地上では主要道路に沿って,また山頂部ではヘリコプターを使って新たな断層の探索が行われた.その結果,壮瞥温泉の湖畔道路や後に火口が出来た国道230号の泉地区で道路を横切るわずかな地割れが見つかり(写真1),有感地震とともにその変位が進行していることが確かめられた.山頂部では北屏風山付近の雪原で新たな断層が発見された.このような観測データから我々研究者はまもなく噴火が始まることを確信した.しかし,噴火地点は浅い地震が多く起こっている山頂から山体の北西部にかけての可能性が濃いというだけで,どこに起こるかは特定することは出来なかった.前回の1977年のように山頂から軽石噴火が始まるのか,山麓の湖水や地下水の豊富なところで明治噴火のようにマグマと水が接触して爆発的な噴火が始まるのか,またマグマに押されて山体の一部が崩れてしまうのか等どのような噴火様式になるかも特定出来なかった.

写真1 壮瞥温泉の湖畔道路に生じた地割れ,3月31日午前8時撮影.

 地元自治体では気象庁の公式見解を待たずに28日から自主避難を開始した.火山噴火予知連絡会が29日に開かれて「数日以内に噴火が発生する可能性が高くなっている」という見解が発表された.30日には避難指示区域は北西部の月浦地区へ拡大され,住民8,036名が対象となった.また北屏風山の湖岸への崩落により湖に津波が発生する恐れがあり,湖全域で湖岸に近寄ることの危険性を指摘されて北湖畔を通る道道の通行規制が行われた.31日には政府の現地対策本部も開設され,内閣危機管理室が自然災害対応としては初めて現地で活動を開始した.実際の噴火開始は3月31日午後1時8分であった(写真2).噴火地点は予想区域を若干外れた西山西山麓であった.火砕流の虻田本町方面への流下を警戒して,急遽虻田町本町とその周辺も避難指示が拡大され総計15,267名が避難した.

写真2 西山西山麓で始まった噴火.3月31日午後3時20分自衛隊ヘリより撮影.

4.難しい噴火の経過予測

 噴火開始から数時間のうちに,火口は西山西山麓で次々と開いていった.翌4月1日の午前11時には洞爺湖温泉の裏の金比羅山からも噴火が始まった(写真3).噴火地点が確定したことにより2日には早くも2,200名の避難指示が解除された.噴火開始当初は爆発的な噴火が間歇的に起こり,噴火地点は次第に北西側に移る傾向が見られた.しかし次第に火口の底に水を湛えて連続的に水蒸気混ざりの噴煙(コックステール型の噴煙)をあげるようになった(写真4).この時点で当面山頂噴火に移行する可能性は薄らいだと判断し,4月12日には「現状のデータでは山頂部の大規模な噴火に移行することを示す現象は見られない」という見解を公表し,翌日には7,000名が帰宅した.対策本部は当初の大規模な警戒態勢を縮小し始めた.

写真3 金毘羅山で始まった噴火.4月1日午後1時自衛隊ヘリより撮影.
写真4 西山の火口から水蒸気と共に勢いよく吹き上げるコックステール型の噴煙.4月9日自衛隊ヘリより撮影.

 その後5月になってから金比羅山の火口内部は次第に乾き,内部のガス圧が高まると蓋が破裂して噴石を飛ばすようになった(写真5).そこで火砕流噴火は仮に起こったとしても比較的規模は小さいだろうと判断した.更に7月になるとこうした噴火も止まることがあるようになり,やがて火口からは水蒸気が立ち込めるだけとなった.

写真5 金比羅山火口での炸裂型噴煙.白い水蒸気を背景に飛び散る噴石が見える.7月10日自衛隊ヘリより撮影.

 このように噴火の推移の予測ははじめから一つのシナリオに絞り込み収束までの経過を見通せるものではない.従って万一に備えて考えうる最悪のシナリオに沿った避難を求めた.しかし避難体制に伴う経済的な損害を生じることも明らかであり,危険が減り始めてからの避難の解除はきめ細かく実施された.

 
<<前ページへ<<     >>次ページへ>>


公開講座目次へ      ・日本火山学会ホームページへ
2000年12月,日本火山学会: kazan@eri.u- tokyo.ac.jp